前回、第4話では、4代将軍徳川家綱から5代将軍徳川綱吉、さらに8代将軍徳川吉宗へと続く流れの中で、江戸時代が平和のもとで大きく発展したことを見ました。(前回の記事は以下を参照ください。)
農業は伸び、交通は整い、商業は広がり、都市は栄え、町人文化も花開きました。
しかし、そこで終わらないのが歴史です。
むしろ問題は、その繁栄の中で育っていきました。
なぜなら、幕府の支配の仕組みは、基本的に米を土台にして作られていたのに対して、現実の社会はしだいにお金と商業を中心に動くようになっていったからです。
つまり江戸時代の繁栄は、社会を豊かにすると同時に、幕府の仕組みと現実とのズレも大きくしていったのです。
第5話では、この問いを考えます。
なぜ繁栄が、そのまま幕府の危機につながったのか。
そして、8代将軍徳川吉宗、10代将軍徳川家治のもとで活躍した田沼意次、11代将軍徳川家斉の時代の松平定信、12代将軍徳川家慶の時代の水野忠邦が、何を問題と見て、何をしようとしたのかを、一つの流れとして見ていきます。
第1章 なぜ「平和と繁栄」がそのまま幕府を苦しめることになったのか
(18世紀前半、8代将軍 徳川吉宗の時代へ)
江戸時代の社会は、平和のもとで発展しました。
このこと自体は確かです。
しかし、その発展は幕府にとって、手放しで喜べるものではありませんでした。
なぜでしょうか。
理由は、幕府の支配の仕組みが、もともと年貢米を土台にしていたからです。
土地から米を集め、それを基準に大名や武士の力を測り、政治を動かしていく。
これが江戸幕府の基本でした。
ところが第4話で見たように、社会の現実はしだいに変わっていきます。
商業が発展し、都市の消費が増え、流通が広がる。
すると、人々の暮らしも経済活動も、だんだん貨幣を中心に動くようになります。
ここで大きなズレが生まれます。
幕府の収入は米に依存している。
しかし、社会の現実はお金で回っている。
このズレは、最初は目立たなくても、社会が豊かになればなるほど大きくなっていきます。
つまり、江戸時代の危機は「繁栄の失敗」ではありません。
むしろ、繁栄そのものが幕府の古い仕組みを時代遅れにしていったのです。
第5話は、そこから始まります。
第2章 なぜ武士は苦しくなり、町人は豊かになっていったのか
(18世紀前半〜中ごろ、8代将軍 徳川吉宗〜10代将軍 徳川家治の時代)
このズレがもっとも分かりやすく現れたのが、武士の生活です。
武士の収入は基本的に俸禄、つまり米です。
けれども、武士が実際に日々の生活を送るには、お金が必要でした。
衣服を買うにも、道具をそろえるにも、家を維持するにも、現金がいる。
そのため武士は、受け取った米を売ってお金に換えなければなりませんでした。
ところが、米の値段は一定ではありません。
しかも都市生活が広がり、消費が増えるほど、必要な支出はふくらみます。
こうして武士は、建前の上では支配する側にいながら、現実にはだんだん生活が苦しくなっていきました。
一方で豊かになっていくのが町人です。
商人や職人は、物を売り、流通を支え、お金を動かすことで富を蓄えていきます。
特に両替商は、金銭のやり取りや貸し借りを担うことで、大きな力を持つようになります。
また、商人たちは株仲間を作り、商業活動を組織化していきました。
ここで起きているのは、単なる貧富の差ではありません。
身分の上では武士が上、しかし経済の現実では町人の方が力を持つ
というねじれです。
これは幕府にとって非常に深刻でした。
なぜなら、社会の建前と実際の力関係がずれていくと、支配の正当性そのものが揺らぎ始めるからです。
第3章 なぜ幕府の財政も苦しくなっていったのか
(18世紀前半、8代将軍 徳川吉宗の時代)
武士が苦しくなったのと同じ構造で、幕府そのものの財政もまた苦しくなっていきます。
幕府の収入の基本は、やはり年貢です。
つまり米です。
しかし支出の方は、年を追うごとに現金を必要とするものが増えていきます。
江戸という巨大都市を維持するにもお金がかかる。
行政を動かすにもお金がかかる。
災害に対応するにも、お金が必要になる。
ここで問題なのは、社会が豊かになっても、その豊かさがそのまま幕府の収入にならないことです。
商業や金融で大きなお金が動いていても、幕府の支配の基本は農業と年貢の上にあります。
つまり社会全体が発展しても、幕府はその果実を十分に吸い上げられなかったのです。
この問題を正面から見つめたのが、8代将軍徳川吉宗でした。
1716年に将軍となった吉宗は、幕府財政がこのままでは立ちゆかなくなることをはっきり意識していました。
彼にとっての課題は、
どうすれば幕府の収入を増やし、支出を抑え、統治を立て直せるか
ということでした。
ここから、江戸時代後半の「改革の時代」が始まります。
第4章 なぜ徳川吉宗は享保の改革を行ったのか
(1716年〜1745年ごろ、8代将軍 徳川吉宗の時代)
吉宗が進めたのが、いわゆる享保の改革です。
ここで大切なのは、吉宗が単に「倹約しろ」と命じただけではないことです。
彼はかなり現実的に、幕府の苦しさの原因を見ていました。
まず吉宗は、幕府の収入を増やす必要があると考えました。
そのために重視したのが、新田開発の促進と農業生産の安定です。
平和な時代には、土地を広げ、生産を増やすことが、そのまま財政の改善につながるからです。
また吉宗は、上米の制を出し、大名から追加の米を差し出させることで、幕府財政の立て直しを図りました。
さらに、裁判の基準を整えるために公事方御定書をまとめ、政治と行政の運営をより安定させようとします。
庶民の意見をくみ取るために目安箱を置いたことも知られています。
ここで見えてくるのは、吉宗がかなり実務的な将軍だったということです。
彼は理想論だけでなく、財政、法律、政治の実際に手を入れて、幕府を立て直そうとしました。
しかし、その改革にも限界がありました。
吉宗はたしかに幕府を引き締め、延命させました。
けれども、社会全体が貨幣経済へ向かう大きな流れそのものを変えることまではできませんでした。
つまり享保の改革は、幕府を立て直す力は持っていても、
時代そのものを巻き戻すところまでは届かなかったのです。
第5章 なぜ田沼意次は商業を利用しようとしたのか
(18世紀後半、10代将軍 徳川家治の時代)
8代将軍吉宗のあと、9代将軍徳川家重の時代を経て、10代将軍徳川家治の時代になると、幕政の中心に立つのが田沼意次です。
田沼の発想は、吉宗とは少し違っていました。
吉宗が農業と倹約を軸に幕府を立て直そうとしたのに対し、田沼は、すでに広がっている商業や貨幣経済を積極的に利用して幕府財政を立て直そうとしたのです。
これは非常に重要な転換です。
田沼は、社会がすでにお金で大きく動いている以上、その現実を無視しても意味がないと見ていました。
そこで彼は、株仲間を公認し、その見返りとして税や運上金を取ることで、商業活動そのものを幕府の収入源にしようとします。
この政策には合理性がありました。
なぜなら、実際に力を持ち始めている商人たちを敵視するより、彼らの活力を幕府の中へ取り込む方が、時代の流れには合っていたからです。
しかし、田沼政治には別の問題もありました。
商業と金銭を重視する政治は、賄賂政治への批判を招きやすく、また農村の苦しさや物価の問題を十分に抑えきれませんでした。
つまり田沼は、時代の現実には近かったのですが、
社会全体の不満や不安をうまく包み込むことはできなかった
のです。
第6章 なぜ天明の大飢饉が社会を大きく揺るがしたのか
(1780年代、10代将軍 徳川家治の時代)
こうした田沼政治の時期に起きたのが、1780年代の天明の大飢饉です。
これは第5話を理解するうえで、きわめて重要な出来事です。
なぜなら、それまで少しずつたまっていた江戸社会の弱さを、一気に表に出してしまったからです。
農業が発展したとはいっても、それは自然の変動を完全に克服したわけではありません。
冷害や天候不順が起これば、収穫は大きく落ち込みます。
しかも、このころの農村はすでに年貢負担や商品経済への巻き込まれによって、余裕を失いつつありました。
そこへ大飢饉が起きると、農民の暮らしはすぐに立ち行かなくなります。
農村では食べるものが足りず、都市では米価が上がり、人々の不満は急速に高まります。
その不満は、農村では百姓一揆として、都市では打ちこわしとして噴き出していきます。
つまり天明の大飢饉は、単なる自然災害ではありません。
江戸社会がすでに不安定さを抱えていたことを、一気に見える形にした出来事だったのです。
第7章 なぜ松平定信は「引き締め」の改革へ向かったのか
(1787年〜1793年ごろ、11代将軍 徳川家斉の時代)
田沼意次のあとに登場するのが、松平定信です。
11代将軍徳川家斉の時代、定信は老中として政治を主導し、いわゆる寛政の改革を進めます。
定信が感じていたのは、田沼政治が商業や貨幣の力を利用する方向へ進む中で、社会の秩序や道徳がゆるんでしまったという危機感でした。
そこで彼は、政治の方向を大きく引き締めます。
倹約を徹底し、農村の再建を重視し、思想面では朱子学をいっそう重んじます。
つまり定信は、単に財政を立て直そうとしたのではなく、
社会全体をもう一度「あるべき秩序」の中に戻そう
としたのです。
この姿勢は、どこか5代将軍徳川綱吉が儒学や生類憐みの令を通じて、社会を道徳によって整えようとした姿勢にも通じます。
経済や商業が活発になるほど、幕府の側では「このままでは秩序が崩れるのではないか」という不安が強くなるのです。
しかし、定信の改革にも限界がありました。
なぜなら、社会はすでに田沼の時代を通じて、以前よりも深く商業とお金に依存するようになっていたからです。
つまり定信は秩序を立て直そうとしましたが、
社会そのものが、もう昔の形には戻れなくなっていた
のです。
第8章 なぜ天保の改革でも立て直せなかったのか
(1841年〜1843年ごろ、12代将軍 徳川家慶の時代)
その後も幕府の苦しさは続きます。
11代将軍家斉の長い時代を経て、12代将軍徳川家慶の時代になると、社会不安はいっそう深まります。
飢饉、物価の上昇、農民や町人の苦しさは積み重なり、各地で不満が噴き出し続けました。
この時代を象徴する出来事の一つが、1837年の大塩平八郎の乱です。
大坂で起きたこの反乱は、単なる地方事件ではありません。
幕府や町の支配の中心に近い場所で、正義を掲げた元役人が立ち上がったという点で、幕府の権威に大きな傷をつけました。
また、農村では百姓一揆が続き、岡山藩では渋染一揆のような動きも起こります。
社会の不満は、もはや一部の地域だけの問題ではなくなっていました。
こうした中で、12代将軍家慶のもとで水野忠邦が進めたのが天保の改革です。
水野は、物価の抑制や倹約令、商人の力の抑制などを通じて、もう一度幕府中心の秩序を立て直そうとしました。
しかし、結果としてこの改革はうまくいきませんでした。
理由ははっきりしています。
社会がすでに大きく商業化し、町人や市場の力が、幕府の想定を超えるほど大きくなっていたからです。
つまり水野忠邦は、制度の力で社会を昔の姿に戻そうとしたのですが、
社会の現実の方が、すでに幕府の制度より先へ進んでしまっていた
のです。
第9章 なぜ、これだけ改革しても決定打にならなかったのか
ここまで見ると、江戸幕府は何もせずに崩れていったわけではありません。
むしろ逆で、幕府は何度も立て直しを試みています。
- 8代将軍徳川吉宗は、享保の改革で財政と農業を立て直そうとした
- 10代将軍徳川家治の時代、田沼意次は商業の力を利用しようとした
- 11代将軍徳川家斉の時代、松平定信は秩序と道徳を立て直そうとした
- 12代将軍徳川家慶の時代、水野忠邦は統制を強めて幕府の威信を回復しようとした
では、なぜそれでも決定打にならなかったのでしょうか。
それは、どの改革にも意味はあったものの、
幕府の支配の土台そのものと、現実の社会の動きとのズレを根本から埋めることはできなかった
からです。
吉宗は農業と財政を立て直そうとしました。
田沼は商業の力を利用しようとしました。
定信は秩序と道徳を立て直そうとしました。
水野忠邦は統制を強めようとしました。
しかし社会の現実は、
- お金を中心に動き、
- 町人が経済を握り、
- 武士は困窮し、
- 農村は疲れ、
- 不満が広がる
という方向へ進んでいました。
つまり問題は、一つの政策の失敗ではありません。
幕府の仕組みそのものが、社会の変化に追いつかなくなっていた
のです。
第10章 なぜ幕府は「外からの衝撃」に耐えられない状態になっていたのか
(19世紀前半、12代将軍 徳川家慶の時代へ)
ここまでを一本の流れで整理してみましょう。
平和が続いたことで社会は発展した。
しかしその発展は、米を土台とする幕府の仕組みと、貨幣経済を中心に動く現実とのズレを生んだ。
その結果、武士は苦しくなり、幕府財政も悪化し、農村にも不満がたまった。
幕府は何度も改革を試みたが、社会の流れそのものを変えることはできなかった。
ここで重要なのは、江戸幕府がまだ倒れたわけではない、ということです。
しかし同時に、内側から弱り始めていたことも確かです。
そして、この内側の弱さの上に、第6話で見る外からの大きな圧力が加わります。
つまり幕府は、ペリー来航によっていきなり壊れたのではありません。
外圧が来たときには、すでに内側から疲れ、揺らぎ、傷んでいたのです。
まとめ
第5話で本当に大切なのは、江戸幕府の危機を「突然の失敗」として見ないことです。
8代将軍徳川吉宗は享保の改革で財政と農業を立て直そうとしました。
10代将軍徳川家治の時代には、田沼意次が商業の力を利用しようとしました。
11代将軍徳川家斉の時代には、松平定信が寛政の改革で秩序と道徳を立て直そうとしました。
12代将軍徳川家慶の時代には、水野忠邦が天保の改革で幕府の統制を回復しようとしました。
しかし、そのどれも決定打にはなりませんでした。
なぜなら、問題は個々の政策よりも深く、
幕府の仕組みと現実の社会とのズレそのものにあったからです。
つまり第5話は、
平和が生んだ繁栄が、やがて幕府の支配の土台を揺さぶり、
将軍たちやその部下が何度も立て直しを試みても、
社会の変化を止めることはできなかった時代
として捉えるのが大切です。
そして次の第6話では、
内側から弱っていた幕府が、外からの圧力を受けて、ついに体制そのものを保てなくなっていく流れ
を見ていきます。


