江戸時代の年表
| 年 | 出来事・背景 |
|---|---|
| 1600年 | 【関ヶ原の戦い】 豊臣秀吉の死後、だれが実権をにぎるのかが大きな問題となり、徳川家康側と石田三成側の対立が全国を巻きこむ戦いへと広がった。 |
| 1603年 | 【徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く】 関ヶ原の戦いで勝利した家康は、朝廷から正式に将軍に任じられることで、武士の政権を全国に認めさせた。 |
| 1605年 | 【家康が将軍職を徳川秀忠にゆずる】 徳川の政権が一代限りではなく、親から子へ受けつがれるものであることを早い段階で示した。 |
| 1614~1615年 | 【大坂冬の陣・夏の陣】 豊臣氏はなお大坂城を本拠として力を保っており、徳川にとって最後に残る大きな対立勢力だった。これをほろぼしたことで、徳川の天下は決定的になった。 |
| 1615年 | 【武家諸法度】 大名が勝手に力を強めて幕府に逆らわないようにするため、結婚・城の修理・行動などに細かなきまりが設けられた。 |
| 1615年 | 【禁中並公家諸法度】 武士だけでなく、天皇や公家の動きも幕府のもとで整え、政治の中心が江戸幕府であることを明確にした。 |
| 1633~1639年 | 【鎖国体制が整う】 キリスト教の広がりや、外国と結びつく勢力の出現は幕府にとって不安材料だった。そこで海外との往来や貿易を強く制限し、外国との関係をしぼっていった。 |
| 1635年 | 【参勤交代が制度化される】 大名を定期的に江戸へ来させることで、幕府は大名の動きを監視できた。さらに、行き来や江戸での生活に多くの費用がかかるため、大名が反乱を起こす力も弱まりやすかった。 |
| 1637~1638年 | 【島原・天草一揆】 重い年貢やきびしい支配に苦しむ農民たちの不満が高まり、キリシタンへの弾圧も重なって、大きな一揆へと発展した。 |
| 1641年 | 【オランダ商館を出島に移す】 外国との交流の場を長崎にしぼることで、幕府は貿易や外国人の動きをよりきびしく管理しようとした。 |
| 1651年 | 【徳川家光が死去】 3代将軍家光の時代までに、武家諸法度・参勤交代・鎖国など、江戸幕府の基本的なしくみはほぼ完成していた。ここは幕府体制が固まった節目といえる。 |
| 1657年 | 【明暦の大火】 江戸の町には木造の建物が密集しており、火がひとたび出ると一気に広がりやすかった。大火は都市づくりを見直すきっかけにもなった。 |
| 1685年 | 【生類憐みの令】 5代将軍徳川綱吉は、生き物の命を大切にする考えを政治に強く反映させた。その結果、人々の暮らしにまで細かな命令が及ぶようになった。 |
| 1688~1704年 | 【元禄文化】 世の中が安定し、商業が発達すると、町人たちの経済力も高まった。こうして、井原西鶴・松尾芭蕉・近松門左衛門らに代表される華やかな町人文化が花開いた。 |
| 1701年 | 【赤穂事件のきっかけが起こる】 江戸城内で浅野長矩が吉良義央に切りつけたことで浅野家は取りつぶしとなり、主君を失った家臣たちの行動が大きな事件へとつながっていった。 |
| 1707年 | 【富士山が噴火(宝永噴火)】 大きな噴火によって火山灰が広い地域に降り、農業や人々の暮らしに深刻な影響が出た。自然災害が社会をゆるがす一例となった。 |
| 1716年 | 【徳川吉宗が8代将軍になる】 幕府の財政はしだいに苦しくなっており、政治を立て直す手腕が求められていた。紀州藩主だった吉宗は、その期待を背負って将軍となった。 |
| 1716~1745年ごろ | 【享保の改革】 幕府の収入が不足し、支出の増加も重なって財政は悪化していた。吉宗は倹約を進め、年貢を見直すなどして立て直しを図った。 |
| 1732年 | 【享保の大ききん】 天候不順や虫の被害によって作物が十分に実らず、食べ物が不足した。農村だけでなく、町の人々の生活にも影響が広がった。 |
| 1772年 | 【田沼意次が老中となる】 幕府財政を立て直すには、米だけに頼らず商業の力を生かす必要があるという考えが強まっていた。田沼意次はその方向で政治を進めた。 |
| 1782~1787年 | 【天明のききん】 冷害や浅間山の噴火などが重なり、農作物に大きな被害が出た。各地で飢えに苦しむ人が増え、社会不安も広がった。 |
| 1787~1793年 | 【寛政の改革】 田沼時代の政治への批判に加え、ききんで社会が不安定になっていた。そこで松平定信は政治の引きしめと立て直しを進めた。 |
| 1792年 | 【ロシアのラクスマンが来航】 北の海で活動を広げていたロシアは、日本との貿易を求めて接近してきた。日本は外国の圧力をしだいに強く意識するようになる。 |
| 1804年 | 【ロシアのレザノフが長崎に来る】 ラクスマン来航のあとも、ロシアは通商を求めて働きかけを続けた。鎖国を続ける幕府にとって、外国の要求は重い課題となっていった。 |
| 1808年 | 【フェートン号事件】 イギリス船が長崎に入りこんだことで、日本の海防の弱さがはっきりした。幕府は外国船への警戒をさらに強めることになった。 |
| 1825年 | 【異国船打払令】 外国船がたびたび日本近海に現れるなかで、幕府は不安を強めていた。そこで、近づく外国船を追い払う方針を明確にした。 |
| 1833~1839年 | 【天保のききん】 冷害や天候不順が続き、農作物の収穫が大きく落ちこんだ。人々の生活は苦しくなり、一揆や打ちこわしも増えていった。 |
| 1837年 | 【大塩平八郎の乱】 ききんで多くの人が苦しんでいたのに、十分な救いの手が届かなかった。そうした政治への怒りが、大坂での反乱という形で噴き出した。 |
| 1841~1843年 | 【天保の改革】 ききんや反乱によって幕府への不信が高まるなか、水野忠邦は社会と政治を立て直そうとした。しかし、きびしすぎる改革は反発も招いた。 |
| 1853年 | 【ペリーが浦賀に来航】 アメリカは日本を開国させ、貿易や船の補給地として利用したいと考えていた。黒船の来航は、長く続いた鎖国体制を大きくゆるがした。 |
| 1854年 | 【日米和親条約】 ペリーの強い要求と軍事力を前に、幕府は対立を続けることが難しかった。その結果、下田・函館などを開くことになった。 |
| 1858年 | 【日米修好通商条約】 アメリカ総領事ハリスは、さらに進んだ通商関係を求めた。幕府は十分な反対の声をおさえきれないまま、貿易を認める条約を結んだ。 |
| 1858年 | 【安政の大獄】 開国に反対する人や、将軍の後継ぎ問題で幕府に異を唱える人々を、井伊直弼は強い力でおさえこもうとした。これがさらに反発を広げた。 |
| 1860年 | 【桜田門外の変】 井伊直弼の強引な政治に強い不満を持った人々が、江戸城の桜田門外で井伊を暗殺した。幕府の権威が大きくゆらいだ事件だった。 |
| 1866年 | 【薩長同盟】 それまで対立していた薩摩藩と長州藩は、幕府を相手にするには協力が必要だと考えるようになった。これによって倒幕の動きが一気に強まった。 |
| 1867年 | 【大政奉還】 徳川慶喜は政権を朝廷に返すことで、徳川家が完全に敵とされるのを避けつつ、主導権を残そうとした。 |
| 1868年 | 【王政復古の大号令】 薩摩藩・長州藩などを中心とする新しい勢力は、幕府を終わらせ、天皇を中心とする新政府を立てようとした。こうして江戸幕府は終わり、明治時代へ移っていく。 |
江戸時代の大きな流れ
徳川家が天下を固める
→ 大名や朝廷をおさえて幕府のしくみを完成させる
→ 平和の中で経済と文化が発達する
→ ききんと財政難で幕府が弱る
→ 外国の接近で幕府がゆらぎ、ついに終わる
江戸時代のストーリーを一本で見ると
江戸時代は、ただ「平和な時代」とひとことで片づけられる時代ではありません。
その始まりには、戦国時代の長い争いを終わらせ、「もう二度と大きな戦が起こらない世の中をどう作るか」という大きな課題がありました。徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝ち、さらに大坂の陣で豊臣氏をほろぼすことで、まずは自分に逆らう大きな力をなくしました。けれども、それだけでは本当の意味で天下を治めたことにはなりません。大名たちがまた力をたくわえれば、世の中はすぐに戦国時代へ逆戻りしてしまうからです。
そこで江戸幕府は、大名をきびしく統制するしくみを整えていきました。武家諸法度で大名の行動をしばり、参勤交代で江戸と領地を行き来させ、朝廷に対しても禁中並公家諸法度を出して、政治の中心が幕府であることをはっきりさせました。さらに、外国とのつながりについても、自由に広がれば国内の支配がゆらぐおそれがあると考え、貿易や海外との行き来を強く制限して、鎖国の体制を整えていきます。こうして江戸幕府は、「大名をおさえる」「朝廷をおさえる」「外国との関係もおさえる」という形で、全国を安定させるための仕組みを作っていったのです。
こうして戦の少ない世の中が続くと、人々の暮らしはしだいに落ち着き、農業や商業が発達していきます。特に都市では、武士だけでなく商人や町人たちの力が大きくなり、経済だけでなく文化の面でも新しい動きが生まれました。元禄文化が栄えたのは、そのような安定した社会の上に、町人たちの活気が積み重なっていったからです。つまり江戸時代の前半は、幕府が世の中を安定させ、その安定の上に経済と文化が育っていく時代だったといえます。
しかし、長く続く政権には、別の苦しさもありました。戦がないことはよいことですが、その一方で幕府や藩はいつまでも多くの武士をかかえ続けなければならず、お金がかかります。しかも社会が発達するにつれて、米を中心に考える昔ながらの仕組みだけでは、現実の経済に合わなくなっていきました。そこへききんや災害が重なり、農民の暮らしは苦しくなり、幕府の財政も悪化します。享保の改革、寛政の改革、天保の改革が行われたのは、こうした苦しさを立て直そうとしたからですが、どの改革も根本的な解決にはなりませんでした。表面上は平和でも、その内側では、社会のゆがみが少しずつ大きくなっていたのです。
そこへ追いうちをかけたのが、外国の接近でした。ロシアやイギリスなどの船が日本近海に現れるようになり、幕府は海を守ることの難しさに直面します。そして決定的だったのが、1853年のペリー来航です。アメリカの強い要求を前に、幕府は長く続けてきた鎖国の体制を守りきれませんでした。すると、「外国に弱い幕府にこのまま日本をまかせてよいのか」という不満が高まり、幕府の政治そのものが大きくゆらぎ始めます。開国を進めるか、外国をしりぞけるか。幕府を立て直すのか、新しい政治を始めるのか。こうした対立が全国に広がり、薩長同盟、大政奉還、王政復古へとつながっていきました。
こうして見ると、江戸時代は、徳川家が戦の時代を終わらせるために強いしくみを作り、そのしくみが長い平和を生み、その平和の中で社会が発展した一方、発展した社会を古いしくみでは支えきれなくなって、最後は外国の圧力も受けて幕府が終わっていく時代だったといえます。
言いかえれば、江戸時代のストーリーは、「戦国の終わりを安定に変えた時代」であると同時に、「安定を続けるためのしくみが、やがて時代の変化に合わなくなっていった時代」でもあったのです。
江戸時代の具体的なストーリー
江戸時代のストーリーを具体的に学びたい方は、以下の「ストーリーで学ぶ『江戸時代①~⑥』」をご参照ください。






