前回、第1話では、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、1603年に江戸幕府を開き、1614年・1615年の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすまでを見ました。(前回の記事は以下を参照ください。)
ここまでで、徳川が日本の中心に立ったことは確かです。
しかし、ここで歴史が終わるわけではありません。
むしろ本当に重要なのは、この次です。
なぜなら、豊臣氏が滅びても、全国にはまだ多くの大名が残っていたからです。
つまり幕府は、「勝った」だけでは足りませんでした。
必要だったのは、もう二度と戦国時代に戻らない仕組みを作ることでした。
第2話では、この問いを考えます。
なぜ徳川幕府は、そこまでして「戦えない社会」を作らなければならなかったのか。
そして、2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の時代に、その仕組みがどのように整えられていったのかを見ていきます。
第1章 豊臣氏を滅ぼしただけでは、なぜ平和は完成しなかったのか
(1615年ごろ、初代将軍 徳川家康・2代将軍 徳川秀忠の時代)
1615年、大坂夏の陣によって豊臣氏は滅びました。
これによって、徳川に対抗できる大きな中心勢力は消えます。
その意味で、この年は戦国時代の大きな区切りです。
けれども、幕府の立場から見れば、ここで安心できる状況にはまだなっていませんでした。
なぜなら、戦国時代を長引かせた原因そのものは、まだ全国に残っていたからです。
その原因とは何か。
それは、各地の大名が、それぞれ領地・家臣・城・財源を持っていたことです。
つまり、豊臣氏がいなくなっても、
- 城がある
- 武士がいる
- 年貢を集める仕組みがある
- 条件がそろえば他の大名と結びつける
という状態が残っている限り、再び争いが起こる可能性は消えません。
言いかえれば、徳川家康が本当に終わらせなければならなかったのは、豊臣氏という一つの家だけではなく、戦国時代を生み出す構造そのものだったのです。
ここで幕府が向き合うことになるのが、
大名をどう残し、どう縛るか
という問題でした。
第2章 なぜ幕府は大名を全部つぶさなかったのか
(17世紀前半、家康から秀忠へ)
ここで素朴な疑問が出てきます。
そこまで大名が危険なら、なぜ徳川幕府は全国の大名を全部つぶしてしまわなかったのでしょうか。
理屈だけなら、その方が安全そうに見えます。
しかし、それは17世紀初めの日本では現実的ではありませんでした。
なぜなら、江戸の幕府が全国すべての土地を直接細かく支配するのは不可能だったからです。
交通も通信も今のようには発達していません。
各地にはそれぞれの事情があり、年貢の取り立て、治水、村の統治、治安の維持などは、その土地をよく知る者でなければ対応できません。
そこで幕府は、大名を消すのではなく、大名に地方統治を任せながら、その上に幕府が立つという形を選びました。
これが幕藩体制です。
「幕」は幕府、「藩」は大名が治める領地です。
つまり幕府が全国の大方針を握り、藩が地方を治める。
ただし藩は独立した国ではなく、あくまで幕府の大きな枠の中で存在する。
ここが大切です。
幕府は、大名を残したのではなく、
戦国大名を、幕府に従う地方支配者へ作り変えようとした
のです。
さらに幕府は、政治・経済・交通の要所を自ら押さえました。
これが**幕領(天領)**です。
金銀山、大都市周辺、重要な街道の要地などを幕府が直接支配することで、全国の主導権を失わないようにしたのです。
第3章 なぜ大名を「親藩・譜代・外様」に分けたのか
(17世紀前半、2代将軍 徳川秀忠の時代)
大名を残す以上、次に必要になるのは、どの大名をどこまで信用するかを見極めることです。
幕府から見れば、すべての大名が同じではありません。
関ヶ原の戦いを思い出せば分かるように、早くから徳川家に従っていた大名もいれば、関ヶ原の後にようやく徳川に従った大名もいます。
同じ「幕府に従う大名」といっても、心の中まで同じとは限りません。
そこで幕府は、大名を三つに分けました。
まず、徳川家の一門である親藩。
次に、関ヶ原以前から徳川家に仕えていた譜代大名。
そして、関ヶ原以後に従った外様大名です。
この分類は、単なる名札ではありません。
幕府はこの区分を使って、だれにどこまで権力を持たせるかを調整しました。
たとえば、幕府政治の中心を担う老中になるのは、基本的に譜代大名です。
老中は将軍を補佐し、政治を実際に動かす中枢でした。
その老中を支えるのが若年寄であり、特別な非常時に置かれる最高職が大老です。
また京都には京都所司代が置かれ、朝廷や西国の動きを監視しました。
ここで見えてくるのは、幕府が大名を「好き嫌い」で分けたのではないということです。
どの大名を政治の中心に置けば全国が安定するかを計算していたのです。
外様大名は、領地の大きさや財力では有力な者が多くいました。
しかし、だからこそ幕府は彼らを中枢から遠ざけました。
一方、譜代大名は領地が比較的小さくても、幕政の中核を担いました。
これは、力の量よりも、誰を信用して政権の骨格に使うかが重要だったからです。
第4章 なぜ大名どうしの結びつきを止める必要があったのか
(1615年、2代将軍 徳川秀忠の時代)
幕府が次に恐れたのは、大名一人ひとりの力そのものより、大名どうしが結びつくことでした。
戦国時代の大きな戦争は、たいてい複数の勢力の連携によって起きています。
婚姻、同盟、主従関係などを通じて、大名たちは互いの力を合わせることができました。
関ヶ原の戦いそのものが、まさに東軍と西軍という連合の戦いでした。
つまり幕府から見れば、最も危険なのは
複数の大名がまとまって、新しい大勢力になること
だったのです。
そこで1615年、大坂の陣が終わったその年に、2代将軍徳川秀忠のもとで定められたのが武家諸法度です。
武家諸法度は、大名が守るべき基本法ですが、その本質は単なるルール集ではありません。
たとえば、大名どうしの勝手な婚姻を禁じたのは、婚姻が政治的な同盟につながるからです。
城の修理や新築を許可制にしたのは、城が軍事拠点そのものだからです。
つまり武家諸法度は、戦争が起こったあとに取り締まるための制度ではなく、
戦争が起こる前に、その芽を摘み取る制度
だったのです。
ここに、江戸幕府の支配の特徴があります。
幕府は、「問題が起きたら処理する」というより、
問題が起きる条件そのものを前もって消そうとしたのです。
第5章 なぜ一国一城令が必要だったのか
(1615年、2代将軍 徳川秀忠の時代)
しかし、大名どうしの結びつきを制限するだけでは十分ではありません。
たとえ他の大名と手を組めなくても、それぞれが戦うための拠点を数多く持っていれば、なお反乱は可能です。
そこで幕府は同じ1615年に一国一城令を出します。
これは、原則として一つの国に城は一つだけとする命令です。
戦国時代の城は、ただの住まいではありません。
城は、政治の中心であり、軍事の拠点であり、兵や武器を集める場所でした。
だから城がたくさんあるということは、それだけ戦争の準備がしやすいということです。
幕府はこの点をよく理解していました。
そこで一国一城令によって城を減らし、
大名が大規模な軍事行動を起こす力そのものを削った
のです。
ここでも幕府は、戦争が起きてから対応しようとしたのではありません。
そもそも大きな戦争が起きにくい物理的条件を作る
という発想で動いていました。
第6章 なぜ徳川家光は参勤交代を制度として整えたのか
(1635年、3代将軍 徳川家光の時代)
けれども、武家諸法度で結びつきを制限し、一国一城令で軍事拠点を減らしても、それだけではまだ安心できません。
なぜなら、大名に十分なお金があれば、やがて再び力を蓄えることができるからです。
ここで幕府が問題にしたのが、大名の財政力です。
どれだけ法律で縛っても、豊かな大名は家臣を養い、城下町を整え、力をたくわえることができます。
だから幕府にとって重要だったのは、軍事力そのものだけでなく、
軍事力を支える経済力まで抑えることでした。
そこで3代将軍徳川家光の時代、1635年に制度として整えられたのが参勤交代です。
参勤交代とは、大名が一定期間、江戸と自分の領地を往復する制度です。
しかし、これを単に「江戸へ出勤する制度」と理解すると、本質が見えません。
第一に、参勤交代には莫大なお金がかかります。
大名は長い行列を作って移動し、江戸にも国元にも屋敷を持ち、多くの家臣を抱えなければなりません。
これは大名の財政に大きな負担をかけます。
つまり幕府は参勤交代によって、
大名が自由に使える財力を削った
のです。
第二に、大名の妻子を江戸に住まわせることには、政治的な意味がありました。
これは表向きには奉公の一部ですが、実質的には人質の性格を持っています。
もし大名が反乱を起こせば、江戸にいる家族が危険にさらされる。
そのため参勤交代は、経済だけでなく、心理的にも大名をしばる制度だったのです。
この制度によって、江戸には全国の大名が定期的に集まり、江戸の城下町はますます大きくなっていきます。
ただし、それは第4話のテーマです。
第2話の段階で大切なのは、参勤交代が
大名を疲弊させ、江戸の幕府の視界の中に置き、反乱を起こしにくくする制度だった
ということです。
第7章 なぜ農村まで細かく支配する必要があったのか
(17世紀前半〜中ごろ、秀忠から家光の時代)
ここまで見てきたように、幕府は大名の力を抑えることに多くの力を注ぎました。
しかし、大名を縛るだけでは支配は安定しません。
なぜなら、幕府も藩も、その収入の土台は年貢だからです。
つまり、政治の仕組みを安定させるには、
農民が安定して生産し、年貢を納め続けること
が絶対に必要でした。
そこで幕府や各藩は、村を非常に重要な統治単位として扱います。
その中心になるのが、庄屋・組頭・百姓代という村方三役です。
庄屋は村を代表して役所と交渉し、年貢を取りまとめます。
組頭は庄屋を助け、村政を支えます。
百姓代は百姓側の意見をまとめる役割を持ちます。
こうして幕府や藩は、村の内部に責任者を置くことで、外から細かく介入しなくても統治を進められるようにしたのです。
さらに、村では五人組も作られました。
これは五戸ほどを一組にし、連帯責任を負わせる制度です。
年貢の未納、犯罪、逃亡などが起これば、個人だけでなく組全体の問題になります。
つまり五人組は、幕府が村人どうしに互いを監視させる仕組みでした。
農民の中にも差がありました。
自分の土地を持ち、年貢を納める自立的な農民が本百姓です。
それに対して、土地をほとんど持たず、暮らしの基盤が弱い者が水のみ百姓です。
この違いはのちにさらに広がっていきますが、この時点でもすでに農村内部には階層差がありました。
年貢の割合は地域によって異なりますが、よく四公六民という言い方で表されます。
必ずしも全国一律ではないものの、農民にとって負担がかなり重かったことを示す目安です。
ここで見えてくるのは、幕府が単に税を取ったのではなく、
村という単位そのものを安定的に管理しようとした
ということです。
第8章 なぜ武士・百姓・町人という秩序をはっきりさせたのか
(17世紀前半〜中ごろ、秀忠から家光の時代)
幕府は大名を管理し、村を管理しました。
しかし、それだけではまだ十分ではありません。
社会全体の中で、誰が何を担うのかが明確でなければ、安定した支配は難しいからです。
そこで幕府が重視したのが、武士・百姓・町人という秩序です。
武士は政治と軍事を担います。
百姓は農業を行い、年貢の土台を支えます。
町人は商人や職人として、城下町や都市の経済を支えます。
この秩序の中で、武士には苗字帯刀が認められました。
苗字を名乗り、刀を差すことは、単なる見た目の違いではなく、支配する側の身分であることの象徴でした。
幕府から見れば、この身分秩序は、単なる不平等のためではありません。
誰がどの役割を担うかを固定することで、社会全体を安定させる仕組み
だったのです。
もちろん、この仕組みはのちに大きな矛盾を生みます。
しかし、17世紀前半の幕府にとっては、戦国の混乱を終わらせるための合理的な方法でした。
第9章 なぜ幕府は「内」だけでなく「外」にも目を向け始めたのか
(17世紀前半、家康から秀忠・家光へ)
ここまでで幕府は、大名、村、身分秩序と、国内の安定に必要な仕組みをかなり整えてきました。
しかし、ここで自然に次の問題が出てきます。
国内の秩序を整えても、外からの影響でそれが崩れたらどうするのかという問題です。
このことを考えるうえで重要なのが、初代将軍徳川家康の時代から、幕府が対外関係もすでに「管理」しようとしていたことです。
その代表が、朱印状を与えて海外渡航を認める朱印船貿易でした。
これは、家康が自由に海外と商売したかったという話ではありません。
むしろ逆で、幕府が
海外との交流も、幕府の許可の下に置こうとした
ことを意味しています。
朱印船は、幕府の許可を受けて東南アジアへ向かい、各地に日本町が作られました。
タイのアユタヤで活躍した山田長政は、その代表的な人物です。
このことが何を示しているか。
それは、幕府が最初から「外を放置」していたのではなく、
外との関係もまた、自分の支配の中に取り込もうとしていた
ということです。
つまり第2話の最後で見えてくるのは、
幕府が国内の秩序を固めたその先に、
次は外との関係をどう管理するか
という課題が自然に現れてくるということです。
そして、その課題が本格的に前面へ出てくるのが、第3話です。
まとめ
第2話で本当に大切なのは、江戸幕府の強さが単なる軍事力ではなく、
戦争が起こる原因を一つずつ消していく制度の強さ
だったことです。
2代将軍徳川秀忠の時代には、武家諸法度や一国一城令によって大名の結びつきと軍事力をしばりました。
3代将軍徳川家光の時代には、参勤交代によって大名の財政と行動をさらにしばりました。
その一方で、村方三役、五人組、年貢、身分秩序を通じて、村と社会全体も安定させていきました。
つまり幕府は、
- 大名を管理し、
- 村を管理し、
- 身分秩序を整え、
再び戦国時代に戻らない社会を作ろうとしたのです。
そしてその次に自然に出てくる問題が、外との関係です。
家康の時代から始まっていた朱印船貿易のような対外管理は、やがてもっと厳しい形へ変わっていきます。
その先にあるのが、第3話のテーマ、
鎖国と幕府による外の統制です。


