古墳時代とはどんな時代だったのか
― クニの争いが「王のネットワーク」を生んだ物語 ―
第1章 争いの中で「王」が必要になった(弥生 → 古墳への入り口)
むかし、日本列島にはまだ「日本」という一つの国はありませんでした。人々はそれぞれの土地で暮らし、むらをつくって生活していました。
やがて弥生時代になると、日本列島に稲作が広がります。米を育てることで食べ物は安定し、人口も増え、むらも大きくなっていきました。
しかし、ここで新しい問題が生まれます。
👉 水と土地をめぐる争い
稲作には、水・土地・人手が欠かせません。
どの川の水を使うか、どの土地を田んぼにするかは、生きていくうえで決定的に大事でした。だから、むら同士の対立はしだいに激しくなっていきます。
やがてむらは、争いに勝つためにまとまりを大きくし、クニ(小国家)になっていきました。けれども、クニができれば争いが終わるわけではありません。今度はクニ同士がぶつかるようになります。これが倭国大乱です。
争いが続く中、人々は気づきます。
👉 小さなリーダーではなく、もっと広い範囲をまとめる大きなリーダーが必要だ
こうして共通の王として立てられたのが卑弥呼でした。
卑弥呼は、人々の争いをおさえ、クニの上に立つ存在になりました。ここで初めて、日本列島に
👉 「広い範囲をまとめる王」
が現れたのです。
けれども、卑弥呼が亡くなると、再び争いが起こります。
ただし、この争いは以前と少し違っていました。
前は「むらどうし」「クニどうし」の争いでした。
しかし今度は、
👉 「卑弥呼のあと、だれが広い範囲の王になるのか」
をめぐる争いになっていたのです。
つまり、卑弥呼の時代を通して、人々はすでに
👉 「広い範囲をまとめる王が必要だ」
という考えを知ってしまっていたのです。
このあと、各地の有力者たちは、それぞれ単独で勝ち上がるのではなく、より大きなまとまりを作れる勢力に引き寄せられていきます。そこで力を伸ばしたのが大和(奈良)の勢力でした。
なぜ大和だったのでしょうか。
大和は地理的に、近畿地方の内側にあって周囲の地域とつながりやすく、いくつもの勢力と結びつきやすい場所でした。さらに大和の勢力は、ただ武力で押さえつけるだけでなく、各地の有力者を仲間に引き入れながら勢力を広げました。
この「各地の有力者」とは、豪族のことです。
豪族とは、今でいうと
👉 ある地域を支配している有力な一族
です。
たとえば、その土地で多くの人々を従え、農業や祭り、軍事をまとめ、地域のリーダーとしてふるまっていた家々が豪族です。豪族は一人の個人ではなく、親子代々続く有力な家でした。
大和の勢力は、こうした豪族たちを従えたり、仲間にしたりして、しだいに大きな政治連合を作っていきます。これがヤマト政権です。
そして、そのヤマト政権の中心に立った王が**大王(おおきみ)**です。
大王とは、今の天皇とまったく同じではありませんが、少なくともこの時代には
👉 多くの豪族の上に立って全体をまとめる、いちばん大きな王
という意味です。
つまり、
豪族 = 地方の有力な一族
大王 = その豪族たちの上に立つ王
です。
ここで日本列島には初めて、
👉 大王を中心に、豪族たちが結びつく仕組み
ができ始めました。
第2章 その新しい政治の仕組みを示したのが古墳だった(古墳時代の始まり)
では、大王を中心に豪族たちが結びつくようになったことを、人々はどうやって実感したのでしょうか。
政治の仕組みは、目に見えません。
「この人が上だ」「この一族は王とつながっている」ということは、言葉だけではなかなか伝わりません。
そこで必要になったのが、
👉 だれが見ても分かる形で権力の順番を示すもの
でした。
それが古墳です。
特に重要なのが、前方後円墳です。前が四角く、後ろが丸い、あの独特な形の巨大な墓です。奈良の箸墓古墳は、その最初期の代表とされています。
なぜ古墳が「新しい秩序」を示すものになったのか。
それは、古墳がただの墓ではなかったからです。
まず、巨大な古墳をつくるには、たくさんの人手と物資を動かす力が必要です。つまり古墳の大きさそのものが、
👉 その人物がどれほど大きな力を持っていたか
を示します。
さらに重要なのは、前方後円墳が大和だけでなく各地に広がったことです。
これは、「たまたま似た形の墓が流行した」というより、
👉 大和の王を頂点とする同じルールが各地に広がった
と考える方が自然です。
つまり前方後円墳とは、
👉 大王の力の大きさを見せる墓
👉 大王とつながる豪族であることを示す墓
👉 ヤマト政権の仲間であることを表すしるし
だったのです。
このような前方後円墳が現れた3世紀半ばごろから、古墳時代が始まります。
第3章 豪族たちはどう結びついたのか(氏姓制度のしくみ)
ヤマト政権は、大王が一人で全部を支配していたわけではありません。
現実には、
👉 大王のもとに、たくさんの豪族が集まってできた連合政権
でした。
では、その豪族たちは、ただ「なんとなく仲間」だったのでしょうか。
そうではありません。そこには、だれがどんな立場で、どんな仕事をするのかを決める仕組みがありました。これが**氏姓制度(しせいせいど)**です。
まず**氏(うじ)**とは、その一族の名前のようなものです。
たとえば「蘇我氏」「物部氏」のように、同じ先祖をもつと考える家の集まりです。
次に**姓(かばね)**とは、その一族がヤマト政権の中でどんな地位にいるかを示す称号です。
イメージしやすく言うと、
氏 = チーム名
姓 = そのチームのランクや役職
です。
たとえば学校で考えるなら、
- 氏 = サッカー部、野球部、放送部のようなグループ
- 姓 = 部長、副部長、一般部員のような立場
に近いです。
もちろん実際の古代社会はもっと重い意味を持ちますが、感覚としてはそう考えると分かりやすいです。
つまり氏姓制度とは、
👉 それぞれの豪族が「どの家か」と「どのくらいえらいか」をはっきり決める制度
でした。
この制度があることで、大王は豪族たちをただ従わせるのではなく、
👉 それぞれに役割と地位を与えて、政権の中に組み込む
ことができました。
たとえば、ある豪族は軍事を担当し、ある豪族は祭りを担当し、ある豪族は外交を助ける、というように、ヤマト政権は役割分担で成り立っていたのです。
埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ヤマト政権と結びつく人名が刻まれており、地方の豪族が中央の大王とつながっていたことを考える重要な手がかりになっています。
つまりヤマト政権とは、
👉 大王が豪族を一つずつ家来にしたというより、豪族たちを順位づけし、役割を与え、ネットワークに組み込んだ仕組み
だったのです。
第4章 巨大古墳が語る「大王の時代」
ヤマト政権がしだいに力を強めると、その変化は古墳の大きさにも表れます。
4世紀末から5世紀にかけて、古墳はさらに巨大になります。
その代表が大仙古墳です。全長約486メートルという、世界最大級の墓です。
これほどの古墳をつくるには、数えきれないほどの人手と、長い工事をまとめる力が必要です。
つまりこの時代には、大王が
👉 地方の豪族に命じ、たくさんの人と物を動かせるほど強い存在
になっていたことが分かります。
古墳は、死んだあとの墓であると同時に、
👉 生きている間の権力の大きさを見せつける巨大なモニュメント
でもあったのです。
第5章 王は「祈る王」から「戦う王」へ変わっていく
このころ、古墳に入れられるものも変わっていきます。
ここでいう「この変化」とは、
古墳の副葬品が、鏡や勾玉などのまじない的なもの中心から、武器・武具・馬具中心へ変わっていく変化のことです。
古墳時代の前のほうでは、鏡・勾玉など、王の神秘的な力や祈りの力を感じさせるものが多く見られました。
これは、王が人々を精神的・宗教的にまとめる存在だったことを示しています。
ところが5世紀ごろになると、古墳には
👉 剣
👉 甲冑
👉 盾
👉 馬具
などが多く入れられるようになります。
これは、王に求められる役割が変わったことを意味します。
つまり、
👉 人々を祈りでまとめる王
から
👉 戦いと軍事で守り、広げる王
へと変わっていったのです。
その背景には、朝鮮半島との関わりの深まりがありました。
当時の半島には高句麗・百済・新羅・伽耶諸国があり、互いに争っていました。日本(倭)もその動きに関わります。
高句麗の王である好太王(広開土王)に関する碑文には、倭との戦いが記されています。
また5世紀には、ヤマト政権の王たちが中国へ使いを送りました。これが倭の五王です。その中の一人が武で、一般に雄略天皇にあたると考えられています。
彼らが中国に使いを送ったのは、
👉 「自分こそが倭の代表の王だ」と認めてもらうため
でした。
つまりヤマト政権は、国内で豪族をまとめるだけでなく、海の向こうの国々との競争や外交の中でも、自分の立場を強くしようとしていたのです。
第6章 渡来人が社会を内側から変えていく
こうした国際交流の中で、日本には多くの渡来人がやってきました。
渡来人は、単に外国から来た人というだけではありません。
彼らは新しい技術と知識を持ち込み、日本の社会のしくみそのものを変えていく存在でした。
たとえば、須恵器が伝わります。これは高い温度で焼く、かたくて丈夫な土器です。これを焼くためには登り窯が必要でした。つまり渡来人は、土器一つだけでなく、その背景にある高度な生産技術まで一緒に伝えたのです。
また、生糸の生産技術も伝わります。これによって衣服や交易に関わる技術が進み、豪族たちはより豊かな生活や贈り物のやり取りができるようになります。
さらに思想の面でも変化が起きます。
儒教は、孔子の教えをもとに、上下関係や礼儀、政治のあり方を重んじる考え方です。これは、大王と豪族の関係、家の秩序、政治のルールを考えるうえで役立ちました。
一方、仏教は、釈迦の教えにもとづく宗教で、死後の世界や救いについて新しい考え方をもたらしました。
つまり渡来人がもたらしたものは、
👉 新しい道具
👉 新しい技術
👉 新しい考え方
でした。
そしてこれによって日本社会は、
👉 生活が便利になる
👉 生産力が上がる
👉 支配のしかたが洗練される
👉 権威のあり方が変わっていく
という形で、内側から変わっていったのです。
第7章 なぜ巨大古墳は消えていったのか
6世紀になると、それまで盛んだった巨大な前方後円墳はしだいに作られなくなります。代わって増えるのが、たくさんの小さな古墳が集まった群集墳や、横から入れる横穴式石室です。
ここで起こった変化は、
👉 古墳が「王の特別な権威を示すもの」から、「一族や家族で使う墓」へ変わっていった
ということです。
では、なぜそうなったのでしょうか。
理由の一つは、ヤマト政権の支配が前より安定してきたことです。
政権がまだ不安定な時代には、大王は巨大古墳によって
👉 「自分こそが一番上だ」
と見せつける必要がありました。
しかし支配のしくみが整ってくると、毎回とてつもない墓を作って権威を示さなくても、政治が回るようになります。
つまり、
👉 権力を見せる方法が、巨大古墳だけではなくなった
のです。
もう一つの理由は、社会のまとまりが変わったことです。
前は「王とその直属の豪族」が中心でしたが、しだいに地方の有力者や一族単位でも墓を持つようになります。そこで、何度も追葬できる横穴式石室が広まりました。
つまり古墳が
王の象徴
↓
家族の墓
へと変わったことが示すのは、
👉 政治の仕組みが少しずつ安定し、権威の見せ方が巨大古墳中心ではなくなったこと
👉 社会の単位が「王の偉大さ」だけでなく、「家・一族のまとまり」へ広がっていったこと
です。
古墳の変化は、そのまま社会の変化を映していたのです。
第8章 古墳の時代から飛鳥の時代へ
そして、古墳時代を大きく終わらせる力になったのが仏教でした。
人々はしだいに、
👉 大きな墓を作って権威を示すより、寺院を建てる方が新しい時代にふさわしい
と考えるようになります。
こうして、権威の中心は
古墳
↓
寺院
へと移っていきました。
仏教をめぐっては、蘇我氏と物部氏が対立しますが、最終的には蘇我氏が勝ちます。
その後、聖徳太子の政治、遣隋使、そして大化の改新へとつながり、日本は
👉 大王と豪族のネットワークの時代
から
👉 天皇中心の国家の時代
へと進んでいきます。
こうして、古墳時代は終わり、飛鳥時代へ入っていくのです。
まとめ
この流れを短く言うと、
弥生
👉 クニが争う時代
古墳
👉 大王と豪族がネットワークでつながる時代
飛鳥
👉 国家の時代
です。
古墳時代とは、ただ大きなお墓が作られた時代ではありません。
それは、
👉 日本列島の各地が、大王を中心とする一つの秩序へまとまり始めた時代
だったのです。
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