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【網羅する歴史 #5】ストーリーで学ぶ「飛鳥時代」〈一問一答つき〉

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飛鳥時代とは、一言でいうと

👉 日本が「豪族の国」から「法律で動く国家」へと変わった時代

です。

では、日本はどのようにして「国家」へと変わっていったのでしょうか。

飛鳥時代の物語、すなわち「日本国家誕生の物語」を通して学んでいきましょう。

【飛鳥時代を”一言”で言うと…】

飛鳥時代とは、豪族が支配していた国が、法律によって動く国家へと変わった時代。


第1章 古墳時代の終わり ― 仏教がもたらした「国家」という発想

古墳時代の日本は、ヤマト政権のもとで、各地の豪族が土地や人々を支配する社会でした。王はその上に立っていましたが、実際には豪族の力に支えられており、まだ統一された国家とは言えませんでした。

この時代の象徴が巨大古墳です。大きな古墳を作ることができるほど、多くの人々を動かせる力を持っていることを意味し、それが権力そのものでした。

ところが6世紀、日本に仏教が伝わります。

ここで重要なのは、仏教そのものに「国家の仕組み」が書かれているわけではないという点です。
ではなぜ仏教が国家と関係するのかというと、仏教は中国や朝鮮半島の「国家」とセットで伝わってきたからです。

当時の中国では、皇帝を中心とした統一国家があり、その国家が仏教を保護し、寺院を建てていました。つまり仏教は、

👉 国家が支える宗教であり、国家の中で機能する文化

として伝わってきたのです。

そのため日本にとって仏教を受け入れることは、

👉 国家という仕組みそのものを学ぶこと

につながりました。

これをめぐって、蘇我馬子と物部氏が対立し、最終的に蘇我氏が勝利します。この勝利によって、日本は「豪族の力で動く社会」から「仕組みでまとめる社会」へと進み始めます。

さらに象徴的なのが、権力の表し方の変化です。巨大古墳は次第に作られなくなり、代わりに法隆寺のような寺院が建てられるようになります。墓ではなく、寺が権威の象徴になったことは、社会の考え方が変わったことを示しています。

こうして日本は、古墳時代から飛鳥時代へと移っていきます。


第2章 推古天皇と聖徳太子 ― なぜこの3人が政治の中心になったのか(ここから飛鳥時代)

飛鳥時代に入り、日本の政治の中心となったのが、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3人です。

まず蘇我馬子は、仏教をめぐる争いに勝利したことで、当時最も力を持つ豪族となっていました。つまり実際に政治を動かせる「実力」を持っていた人物です。

しかし、実力だけでは政治は安定しません。そこで必要になるのが「正統性」です。その役割を担ったのが、皇族である推古天皇でした。天皇は「正しい支配者」として、政治に正当性を与える存在です。

そして、この二つをつなぐ存在が聖徳太子でした。聖徳太子は皇族でありながら政治能力にも優れ、摂政として実際の政治を担いました。

つまりこの3人は、

👉 蘇我馬子(実力)
👉 推古天皇(正統性)
👉 聖徳太子(調整と実務)

という関係で成り立っていたのです。

この体制のもとで、聖徳太子は国家づくりを進めます。冠位十二階によって能力による人材登用を行い、憲法十七条によって政治の理念を示しました。また、小野妹子を遣隋使として派遣し、中国の制度を学びます。

こうして日本は、国家の「設計図」を持つようになります。

しかし聖徳太子の死後、このバランスが崩れます。調整役がいなくなったことで、もともと強い力を持っていた蘇我氏が政治を独占するようになりました。蘇我蝦夷・入鹿父子の時代には、他の豪族や皇族を押さえ込む形で政治が進められるようになります。

こうして再び、「豪族が支配する社会」に戻りかけてしまいます。


第3章 乙巳の変と大化の改新 ― 国家への大転換

この状況を変えようとしたのが、中大兄皇子と中臣鎌足です。

645年、二人は宮中で蘇我入鹿を討ちます。これが乙巳の変です。この出来事によって、豪族が政治を独占する体制は崩れました。

そしてその直後に始まったのが大化の改新です。

ここで出されたのが「改新の詔」です。これは政治の方針を示したもので、

👉 豪族の支配から国家による支配へ変える宣言

でした。

また、このとき「大化」という元号が使われます。これは、中国にならって年号を用いたもので、日本が「国家としての体裁」を整えようとしていたことを示しています。

では大化の改新の具体的な内容は何だったのでしょうか。

大きくまとめると、次の3つです。

① 公地公民
→ 土地と人はすべて国家のもの

② 班田収授法
→ 土地を国家が人々に分け与える

③ 徴税システム(租・調・庸)
→ 国家が税を集める仕組み

これによって、日本は初めて

👉 国家が人と土地を直接支配する仕組み

を持つようになります。

ここで日本は、完全に「国家」へと方向転換しました。


第4章 白村江の戦いと壬申の乱 ― 国家を守るための戦い

しかし国家づくりは順調には進みませんでした。

まず起こったのが白村江の戦いです。これは朝鮮半島の争いに日本が関わったことが原因です。日本は百済を助けるために出兵しましたが、唐と新羅の連合軍に敗北します。

この敗北は大きな衝撃でした。

👉 「弱いままでは国が滅びる」

という危機感が生まれたのです。

そのため日本は、防衛を強化し、国家体制を急いで整える必要に迫られます。

さらに国内では壬申の乱が起こります。これは天皇の後継者をめぐる争いで、天武天皇が勝利しました。

この戦いは単なる権力争いではなく、

👉 国家を誰が主導するかを決める戦い

でもありました。

天武天皇は勝利後、国家づくりを一気に進めます。戸籍を作り、人々を把握し、中央には2官8省、地方には国司・郡司・里長を置いて統治の仕組みを整えました。

こうして日本は、内外の危機を乗り越えながら、国家としての形を固めていきます。


第5章 律令国家の完成 ― 法律で動く国へ

国家づくりの最終段階で整えられたのが大宝律令です。

これは政治や社会のルールをまとめた法律で、

👉 国家を法律で運営するための仕組み

でした。

なぜこれが必要だったのでしょうか。

それは、それまでの改革だけではルールがバラバラで、安定した国家運営が難しかったからです。そこで全国共通のルールを作る必要がありました。

大宝律令によって、

  • 土地の管理
  • 税の徴収
  • 役人の制度

などが統一され、日本は律令国家として完成します。

また富本銭のような貨幣も作られ、経済の面でも国家の統一が進みました。

しかしこの国家は、人々にとっては負担の大きいものでした。万葉集に収められた山上憶良の「貧窮問答歌」には、生活に苦しむ人々の姿が描かれています。

国家は完成しましたが、その裏では庶民の苦しみも広がっていたのです。


第6章 都の完成と奈良時代、そして平安時代へ

国家が完成すると、その中心となる都が必要になります。そこで建設されたのが平城京です。

ここに政治の中心が移され、日本は奈良時代へと入ります。

しかし奈良時代になると、今度は寺院の力が強くなりすぎるという問題が起こります。仏教が国家を支える存在であったはずが、政治に強く関わるようになってしまったのです。

この問題を解決するため、都は平安京へと移されます。

こうして日本は、新たな時代である平安時代へと進んでいきます。


まとめ 飛鳥時代とは何だったのか

飛鳥時代とは、

👉 仏教の伝来
👉 政治改革
👉 法律による国家

という流れの中で、

日本が初めて「国家」として形を持った時代です。

古墳時代の豪族社会から、奈良・平安へと続く国家へ。
そのすべての出発点が、飛鳥時代だったのです。