前回、第5話では、江戸幕府が18世紀後半から19世紀前半にかけて、すでに内側から揺らぎ始めていたことを見ました。(前回の記事は以下を参照ください。)
社会は貨幣経済へ深く移り、武士は困窮し、農村には不満がたまり、幕府は享保の改革、寛政の改革、天保の改革と何度も立て直しを試みました。
しかし、そのどれも決定打にはなりませんでした。
ここで大切なのは、幕府が何もしなかったから弱ったのではない、ということです。
むしろ逆で、何度も手を打ったにもかかわらず、社会の変化そのものに制度が追いつかなくなっていたのです。
そのように内側から弱っていた幕府に、19世紀半ば、外から大きな衝撃が加わります。
それが、いわゆる開国と幕末の始まりです。
第6話では、この問いを考えます。
なぜ江戸幕府は、外からの圧力に押し切られたのか。
そしてさらに、なぜ開国は幕府を立て直すどころか、かえって幕府の終わりを早めることになったのか。
12代将軍徳川家慶から、13代将軍徳川家定、14代将軍徳川家茂、そして15代将軍徳川慶喜へと続く流れの中で見ていきます。
第1章 なぜ幕府は、外からの衝撃に耐えられない状態になっていたのか
(19世紀前半、11代将軍 徳川家斉〜12代将軍 徳川家慶の時代)
江戸幕府は、19世紀前半の時点で、すでにかなり苦しい状態にありました。
11代将軍徳川家斉、12代将軍徳川家慶の時代には、社会の中で次のような問題が積み重なっていました。
武士は米をもらって暮らす仕組みのままなのに、社会はお金で動くようになっている。
農村は年貢負担と飢饉で疲れている。
町人は経済力を持つが、幕府の仕組みはそれを十分に取り込めない。
幕府は改革を繰り返すが、社会の変化の方が速い。
つまり幕府は、この時点で、内側からかなり傷んでいたのです。
ここで重要なのは、外からの圧力が来たから幕府が急に弱くなったのではない、ということです。
むしろ、もともと弱り始めていた幕府のところへ、外の世界の大きな変化が重なったと考えるべきです。
つまり第6話の出発点は、「ペリー来航」そのものではありません。
その前にすでに、幕府は外圧に耐えにくい体質になっていたのです。
第2章 なぜ外国は19世紀に日本へ近づいてきたのか
(18世紀末〜19世紀前半、家斉〜家慶の時代)
では、なぜこの時代に外国は日本へ近づいてきたのでしょうか。
その大きな背景にあるのが、ヨーロッパを中心に進んだ産業革命です。
産業革命によって、イギリスをはじめとする国々は機械で大量に物を作るようになります。
すると、作った製品を売る市場、工業を支える原料、そして海外へ進出するための拠点が必要になります。
さらに蒸気船や軍事技術の発達により、遠い地域へも以前より強い力で進出できるようになりました。
この動きはロシアにも見られます。
ロシアは南下政策を進め、日本の北方、つまり蝦夷地や千島方面へ接近してきます。
この流れの中で、1792年にはロシアのラクスマンが来航しました。
また、北方の様子を調べるために、幕府側でも間宮林蔵が探検を行い、近藤重蔵らが北方防備に関わるようになります。
ここで幕府が見ていたのは、単に「外国船が来る」という表面的な現象ではありません。
鎖国を続けていても、世界の側が日本を放っておかなくなっているという現実です。
それでも幕府は、方針を大きく変えることができませんでした。
12代将軍家慶の時代の少し前、1825年には**異国船打払令(外国船打払令)**が出されます。
外国船は追い払う、という非常に強い方針です。
しかしこれは、幕府が自信を持っていたからというより、
変わる世界にどう対応してよいか分からず、とりあえず従来の姿勢を強めた
と考えた方が実態に近いでしょう。
その無理は、1837年のモリソン号事件にも表れます。
漂流民を送り届けようとしたアメリカ船まで攻撃してしまったこの事件は、幕府の対外政策が、世界の現実とずれ始めていたことを示していました。
第3章 なぜ幕府は世界の変化に柔軟に対応できなかったのか
(19世紀前半、12代将軍 徳川家慶の時代)
ここで自然に疑問が出てきます。
世界が大きく変わっているなら、なぜ幕府はもっと柔軟に方針を変えられなかったのでしょうか。
理由は二つあります。
第一に、幕府はすでに内政問題で手いっぱいだったからです。
財政難、一揆、打ちこわし、改革の失敗。
つまり幕府は、外を見る前に、国内のゆらぎへの対応に追われていました。
第二に、幕府の支配そのものが、鎖国を前提とした安定の上に成り立っていたからです。
もし外との関係を大きく変えれば、国内の秩序もまた揺らぎます。
幕府にとって外交問題は、単なる外交ではありません。
幕府がこの国をどう治めるかに直結する問題でした。
だから幕府は、変化の必要を感じながらも、大きく方針転換することができませんでした。
言いかえれば、幕府は「変わらなければ危ない」と分かり始めていたのに、
変わること自体が、自分の支配の土台を揺るがす
という苦しい立場に置かれていたのです。
第4章 なぜペリー来航は決定的だったのか
(1853年〜1854年、12代将軍 徳川家慶〜13代将軍 徳川家定の時代)
こうした状態の幕府に決定的な圧力をかけたのが、1853年のペリー来航です。
アメリカは、太平洋を横断する航路の中で、日本を補給基地として利用したいと考えていました。
とくに捕鯨船の寄港地や、中国貿易の中継地点として、日本の港を開かせる必要があったのです。
ペリーが浦賀に現れたとき、将軍はまだ12代将軍徳川家慶でした。
しかしこの問題が幕政を大きく揺さぶる中で、やがて13代将軍徳川家定の時代へ入っていきます。
ここで幕府が目の当たりにしたのは、これまでの外国船とは明らかに違う力でした。
蒸気船、大砲、そして強い開国要求。
幕府は、これまでのように「追い払えばよい」とは考えられませんでした。
なぜなら、軍事力の差があまりにも大きく、戦えば敗北の可能性が高かったからです。
つまり、幕府が開国へ向かったのは、外国に好意を持ったからではありません。
戦っても勝てないという現実の前に、選択肢がほとんどなかったからです。
その結果、1854年、13代将軍家定の時代に、幕府は日米和親条約(神奈川条約)を結びます。
これによって下田・函館が開かれ、鎖国体制は大きく揺らぎ始めました。
ここが重要です。
ペリー来航が決定的だったのは、ただ外国船が来たからではありません。
幕府が、自分の意志だけでは、それまで守ってきた体制を維持できなくなったことを人々の前にさらしたからです。
第5章 なぜ不平等条約は、単なる外交問題では済まなかったのか
(1858年、13代将軍 徳川家定の時代)
ペリー来航のあと、問題はさらに進みます。
1858年、13代将軍徳川家定の時代に、幕府はアメリカ総領事ハリスとの交渉の末、日米修好通商条約を結びます。
この条約には、日本にとって不利な内容が含まれていました。
たとえば、日本が輸入品に自由に関税をかけられない関税自主権の欠如、外国人が自国の法律で裁かれる**領事裁判権(治外法権)**の承認などです。
つまり、これは明らかに不平等な条約でした。
しかし本当に深刻だったのは、条約の内容だけではありません。
もっと大きかったのは、幕府がこの重大な決定を、朝廷の十分な同意を得ないまま進めたことです。
これによって人々の目は変わります。
それまで江戸幕府は、日本の政治を動かす中心として長く存在してきました。
けれども、外国との重大な問題において、幕府が不利な条約を結んだように見えると、
「本当に幕府が国を代表してよいのか」という疑問が強くなります。
そこで人々の意識が向かうのが、天皇です。
こうして広がっていくのが、尊王攘夷運動です。
ここで大切なのは、尊王攘夷を単なる「外国を追い払え」という感情論にしないことです。
もちろん攘夷の面はあります。
しかし本質はもっと深い。
外国に押し切られた幕府ではなく、天皇を中心に国のあり方を立て直すべきだ
という政治的な主張でもあったのです。
つまり不平等条約は、単なる外交問題ではなく、
幕府の支配の正統性を揺るがす政治問題へ変わっていったのです。
第6章 なぜ安政の大獄と桜田門外の変が続けて起きたのか
(1858年〜1860年、13代将軍 徳川家定の時代)
この流れに強い危機感を抱いたのが、幕府の実力者井伊直弼です。
井伊直弼は大老として幕政を主導し、条約反対派や尊王攘夷派を一気に抑え込もうとします。
これが1858年からの安政の大獄です。
井伊が強硬策に出た理由ははっきりしています。
幕府にとって本当に危険なのは、外国との条約そのもの以上に、条約問題をきっかけに幕府への不信が全国へ広がることでした。
だから井伊は、反対派の大名、公家、志士たちを厳しく処罰し、力で秩序を立て直そうとしたのです。
しかし、この選択は逆効果を生みました。
もともと不平等条約に対する不満が高まっていたところへ、さらに弾圧が加わったため、反発はより激しくなります。
そしてその怒りは、ついに1860年、江戸城桜田門外で爆発します。
これが桜田門外の変です。
井伊直弼は水戸藩の浪士らに暗殺されました。
この二つの出来事は、別々の事件ではありません。
開国による不満が広がり、それを力で押さえ込もうとして安政の大獄が起こり、その強硬策がかえって反幕府感情を強め、桜田門外の変へ至ったのです。
ここで明らかになったのは、幕府がもはや
反対勢力を押さえ込めるほど強くはない
という現実でした。
第7章 なぜ薩摩と長州は倒幕へ向かったのか
(1860年代、14代将軍 徳川家茂の時代)
井伊直弼の死後、幕府はさらに苦しい立場に追い込まれます。
この時代の将軍は14代将軍徳川家茂です。
家茂の時代、尊王攘夷の運動は広がり続け、幕府は朝廷と諸藩の間で苦しいかじ取りを迫られます。
ここで重要な役割を果たすのが、薩摩藩と長州藩です。
彼らは当初、尊王攘夷の立場を取っていました。
しかし実際に外国と向き合う中で、その考えは変わっていきます。
たとえば薩摩藩は、1863年の薩英戦争を通じて、外国の軍事力の強さを思い知ります。
長州藩もまた、外国との軍事的な対立を経験する中で、単純に「追い払え」と言うだけでは済まない現実を学びます。
この経験から、薩摩も長州も次第に考え方を変えます。
外国に対抗するには、日本そのものがもっと強く、近代的にならなければならない。
そしてそのためには、今の幕府中心の体制を変えなければならない。
こうして彼らは、単なる攘夷から、倒幕へと向かっていきます。
この流れをつなぐ重要人物が坂本龍馬です。
彼の仲介によって、1866年に薩長同盟が結ばれます。
ここで初めて、幕府に対抗できる現実的な政治勢力がまとまるのです。
薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允らは、この流れの中で中心人物になっていきます。
彼らは単に幕府が嫌いだったのではありません。
今の幕府では、この世界の変化に対応できない
と判断したからこそ、倒幕へ向かったのです。
第8章 なぜ徳川慶喜は大政奉還を選んだのか
(1867年、15代将軍 徳川慶喜の時代)
こうして幕府を取り巻く状況は急速に不利になります。
この状況で最後の将軍となるのが、15代将軍徳川慶喜です。
慶喜は、これまでの将軍たちと比べても、かなり現実を冷静に見る人物でした。
彼には、幕府が置かれた状況がよく見えていました。
国内では、薩長を中心とする反幕府勢力がまとまり始めている。
朝廷の存在感も高まり、天皇を中心に政治を立て直そうという流れが強い。
外には依然として外国の圧力がある。
この状態で幕府が武力でしがみつけば、日本全体がさらに混乱し、最悪の場合は分裂しかねない。
そこで慶喜が選んだのが、1867年の大政奉還です。
これは政権を天皇へ返すという決断でした。
ここを単純に「徳川が負けを認めた」とだけ見るのは十分ではありません。
慶喜の選択は、幕府の権力をそのまま守ることは難しいと見たうえで、
戦わずに体制を終わらせ、日本全体の崩壊を避けようとした政治判断
でもあったのです。
もちろん、その後も対立は続き、旧幕府勢力と新政府勢力は戦うことになります。
しかし、江戸幕府という体制そのものは、この大政奉還によって終わりへ向かいました。
第9章 なぜ江戸幕府は滅びたのか
ここまでを一本の流れで整理してみます。
江戸幕府は18世紀後半から19世紀前半にかけて、すでに内側から弱っていました。
貨幣経済の発展、武士の困窮、農村の疲れ、改革の限界。
その上に、産業革命を経た世界の変化が押し寄せます。
ロシアやアメリカ、イギリスなどの動きにより、鎖国体制は揺らぎ、1853年のペリー来航が決定打となりました。
幕府は開国し、不平等条約を結びますが、それが今度は幕府の正統性への疑いを生みます。
その不満を井伊直弼が弾圧しようとして安政の大獄が起き、さらに桜田門外の変によって幕府の弱さが露呈します。
その後、薩摩と長州は倒幕へ向かい、薩長同盟が成立し、最後に徳川慶喜が大政奉還を行う。
つまり江戸幕府の滅亡は、単に「ペリーが来たから」ではありません。
また、単に「薩長が強かったから」でもありません。
本当には、
内側から弱っていた幕府に、外からの変化が重なり、その結果、幕府中心の体制では日本をまとめきれなくなった
ということです。
第10章 なぜ江戸時代の終わりは、そのまま明治時代の始まりになったのか
(1867年以後、江戸から明治への橋渡し)
1867年の大政奉還によって、徳川幕府は政治の中心としての役割を終えることになります。
けれども、ここで大切なのは、江戸時代の終わりを単に「徳川が負けた」「幕府が滅びた」というだけで見ないことです。
本当には、ここで日本は、
これまでの仕組みでは世界の変化に対応できない
という現実に直面していました。
江戸幕府は、戦国時代を終わらせ、長い平和を作り、農業・商業・都市・文化を発展させました。
その意味で、江戸時代は失敗の時代ではありません。
むしろ、日本社会の土台を大きく育てた時代でした。
しかしその一方で、幕府の仕組みは、
- 年貢と米を土台にした支配
- 武士を中心とした身分秩序
- 鎖国を前提とした外交
の上に成り立っていました。
そして19世紀になると、世界はもうその枠の外へ動いていました。
つまり、江戸時代の終わりとは、
江戸時代が全部まちがっていたということではなく、
江戸時代の仕組みだけでは、もう次の時代を支えきれなくなった
ということなのです。
ここで新しく始まる明治時代の課題ははっきりしています。
それは、幕府に代わる新しい政治の中心を作り、身分制度を組みかえ、外国に対抗できる国家を作ることです。
言いかえれば明治時代とは、
江戸時代が残した豊かさや社会の土台を引き継ぎながら、
その限界を乗り越えようとする時代
として始まるのです。
だから、江戸時代と明治時代は、きっぱり切れた別世界ではありません。
江戸時代の平和と発展があったからこそ、明治時代の近代化も可能になりました。
しかし同時に、江戸時代の仕組みが限界に達したからこそ、明治維新が必要になったのです。
ここまでの流れを一本の線で見るなら、
戦国時代の混乱
↓
徳川家康による統一
↓
幕府による平和と安定
↓
農業・商業・都市・文化の発展
↓
社会の変化と幕府の仕組みのズレ
↓
外圧と幕末の混乱
↓
江戸幕府の終わり
↓
新しい国づくりとしての明治時代
となります。
つまり、明治時代は突然始まるのではありません。
江戸時代の終わりが、そのまま明治時代の出発点になっているのです。
まとめ
第6話で本当に大切なのは、江戸幕府の終わりを、一つの事件で理解しないことです。
12代将軍徳川家慶の時代には、すでに世界の変化が幕府を揺さぶり始めていました。
13代将軍徳川家定の時代には、ペリー来航、日米和親条約(神奈川条約)、日米修好通商条約によって、鎖国体制と幕府の正統性が大きく揺らぎます。
井伊直弼は安政の大獄でそれを押さえ込もうとしましたが、桜田門外の変によって逆に幕府の弱さが見えてしまいました。
14代将軍徳川家茂の時代には、薩摩藩・長州藩が倒幕へ向かい、薩長同盟が成立します。
そして15代将軍徳川慶喜は、大政奉還によって徳川の政権を終わらせる道を選びました。
つまり第6話は、
内側から弱った幕府が、外の衝撃によって一気にゆさぶられ、
その揺らぎを押さえ込めなくなった結果、
ついに幕府中心の時代そのものが終わり、
その先に明治という新しい国づくりの時代が始まった時代
として捉えるのが大切です。

