前回、第3話では、2代将軍徳川秀忠から3代将軍徳川家光の時代にかけて、幕府が外との関係を厳しく管理し、いわゆる鎖国の体制を作っていったことを見ました。第2話で整えた「内」の統制に加え、第3話では「外」の統制も形になったわけです。(第2話・第3話の記事は以下を参照ください。)
ここまで来ると、江戸幕府はかなり強い安定を手に入れます。
では、その安定の上で何が起きたのでしょうか。
答えは、平和が社会の力の向かう先を変えたということです。
戦国時代には、人も物も金も、まず戦いのために使われていました。
ところが大きな戦争がなくなると、その力は生産、流通、商業、都市、文化へと向かうようになります。
第4話では、この問いを考えます。
なぜ江戸時代はここまで大きく発展したのか。
そしてさらに、その繁栄がなぜ次の時代のゆがみや危機の芽にもなったのか。
4代将軍徳川家綱から、5代将軍徳川綱吉、さらに8代将軍徳川吉宗へと続く流れの中で見ていきます。
第1章 家光が作った平和の上で、社会は何に力を使うようになったのか
(17世紀後半、4代将軍 徳川家綱の時代へ)
3代将軍徳川家光の時代までに、幕府はかなり強い支配体制を作り上げました。
大名は勝手に戦えず、外国との関係も幕府の判断で絞り込まれます。
このことが意味したのは、日本全体が、長く大きな戦争のない時代に入ったということでした。
その後を継いだ4代将軍徳川家綱の時代になると、この安定が社会の形にはっきり表れてきます。
家綱は、家康や家光のように、目立つ大制度を次々と作った将軍ではありません。
けれども、それは何もしていなかったという意味ではありません。
むしろ、大きな戦争を心配せずにすむ時代を、そのまま受け継いだ将軍だったからこそ、家綱の時代には社会の力が軍事以外の方向へ流れ始めたのです。
ここがとても大切です。
平和とは、単に「戦いがないこと」ではありません。
それまで戦争に吸い取られていた人手・時間・資源が、暮らしや生産の方へ向かい始めることでもあります。
つまり、江戸時代の繁栄は、ある日突然始まったのではありません。
家光までに作られた安定を、家綱の時代以後、社会全体が本格的に使い始めたことによって生まれたのです。
第2章 なぜ農業がこれほど大きく発展したのか
(17世紀後半〜18世紀前半、4代将軍 徳川家綱〜5代将軍 徳川綱吉〜8代将軍 徳川吉宗の時代)
平和な時代になると、最初に大きく変わるのは農業です。
その理由ははっきりしています。
戦国時代には、人手も資金も戦の準備に使われていました。
しかし江戸時代になると、それらを土地の開発や耕作の改良へ回せるようになったからです。
4代将軍家綱の時代になると、各藩は戦争で領地を増やすことより、今ある領地をどう豊かにするかを重視するようになります。
その結果、各地で進められたのが新田開発です。
湿地や荒れ地を田畑に変え、新しい耕地を広げていく。
この流れは江戸時代前半から続いていましたが、家綱から5代将軍徳川綱吉の時代にかけて、より広い範囲で進みました。
その結果、江戸時代を通して見れば、耕地面積は約2倍に増加したとされます。
しかも発展したのは面積だけではありません。
農具や農法も改良されます。
深く耕せる備中ぐわ、脱穀を効率化する千歯こき、穀物を選り分ける唐みなどが広がり、農作業の効率は高まっていきました。
さらに、肥料としてほしかや油かすが使われるようになり、同じ土地からより多くの収穫を得ようとする工夫も進みます。
ここで重要なのは、農業の発展が「自然に」起きたのではないということです。
平和な社会が続き、藩が領内経営を重視し、農民が来年も耕せるという見通しを持てたからこそ、こうした改良が積み重なったのです。
さらに18世紀前半、8代将軍徳川吉宗の時代になると、幕府の財政を立て直す必要から、吉宗は農業の重要性をいっそう意識するようになります。
この後、第5話で見る享保の改革へつながっていきますが、その前提としてすでに、農業の安定と生産力の向上は、幕府自身の課題にもなっていたのです。
また、飢饉に強い作物としてさつまいもが注目され、のちに青木昆陽がその普及に関わるようになるのも、この流れの中で理解できます。
つまり農業の発展とは、
平和が生んだ変化であると同時に、
各藩や幕府が、自分たちの財政を支えるために後押しした変化でもあったのです。
第3章 なぜ生産の増加が、そのまま商業の発展につながったのか
(17世紀後半〜18世紀前半、5代将軍 徳川綱吉〜8代将軍 徳川吉宗の時代)
農業が発展すると、次に起こるのは余剰の発生です。
自分たちが食べる分だけで精一杯の社会では、市場は大きくなりません。
しかし、収穫が増えて余りが出れば、それを売ることができるようになります。
ここから社会は、単に作るだけの社会から、売り買いを前提に動く社会へと変わっていきます。
つまり、農業の発展はそのまま商業の発展を生むのです。
この変化が目立ってくるのは、5代将軍綱吉の時代から8代将軍吉宗の時代にかけてです。
綱吉の時代には、江戸・大阪・京都といった大都市がますます大きくなり、その消費を支えるために農村も都市の市場を意識して生産するようになります。
ここで進むのが分業です。
ある地域は米を多く作り、ある地域は商品作物を作り、ある人々は運搬を担い、ある人々は加工や販売を担う。
つまり社会が、役割ごとに少しずつ専門化していくのです。
この流れの中で、酒、醤油、せんい製品など、さまざまな商品が市場を通して流れるようになります。
農村も都市も、以前よりずっと強く結びつくようになっていきました。
つまり商業の発展は、商人だけががんばった結果ではありません。
平和のもとで生産が増え、その余りを動かす必要が生まれた結果、社会全体が商業化していったのです。
第4章 なぜ幕府が整えた交通網が、経済発展の土台にもなったのか
(17世紀後半〜18世紀前半、4代将軍 徳川家綱〜8代将軍 徳川吉宗の時代)
生産が増え、売り買いが広がれば、それを支える交通と流通の仕組みが必要になります。
ここで大きな役割を果たしたのが、幕府が支配のために整えていた道と輸送の仕組みです。
その代表が五街道です。
東海道、中山道、甲州街道(甲州道中)、奥州街道(奥州道中)、そして日光街道。
これらはもともと参勤交代や幕府の統制にとって重要な道でした。
しかし平和が続く中で、それはそのまま経済の大動脈になっていきます。
4代将軍家綱の時代から5代将軍綱吉の時代にかけて、街道沿いには宿場町が発達し、人と物の移動を支えるようになります。
距離の目安として一里塚が整えられ、また関所が置かれて移動は管理されました。
この点に江戸時代らしさがあります。
幕府は道を整えましたが、それを完全に自由にはしませんでした。
発展させながら、同時に支配する。
この考え方が交通にも表れています。
また海上交通も発展します。
江戸と大阪を結ぶ菱垣廻船や樽廻船、全国物流を支える東廻り・西廻り航路、日本海側で活躍する北前船。
こうした輸送網が整うことで、日本列島はしだいに一つの大きな経済圏として結びついていきます。
そして8代将軍吉宗の時代になると、幕府財政の立て直しの必要からも、こうした流通の重要性はますます高まっていきます。
つまり幕府が支配のために作った交通網は、やがてそのまま繁栄を支える道にもなったのです。
第5章 なぜ大阪は「天下の台所」になったのか
(17世紀後半〜18世紀前半、5代将軍 徳川綱吉〜8代将軍 徳川吉宗の時代)
経済の中心を考えるうえで、どうしても外せないのが大阪です。
江戸が政治の中心であるのに対し、大阪は経済の中心として大きな役割を果たすようになります。
その背景には、各藩が大阪に置いた蔵屋敷があります。
藩の収入の基本は年貢米です。
しかし米のままでは、武士の生活費やさまざまな支出に使いにくい。
そこで各藩は、領地で集めた年貢米を大阪に送り、蔵屋敷で保管し、売って現金に換えました。
ここで大阪は、ただ米が集まる場所ではなく、
米をお金に変える場所
になりました。
これが大阪が天下の台所と呼ばれる理由です。
この役割が特にはっきりしてくるのが、5代将軍綱吉から8代将軍吉宗の時代です。
都市経済が大きくなるほど、藩も武士も現金を必要とするようになるからです。
ここに、江戸時代の大事な変化があります。
建前の上では社会は米を土台にしています。
しかし現実には、社会はだんだんお金中心へ動いていきます。
大阪はその変化をもっともよく示す場所でした。
そしてこの変化は、後に幕府や武士の苦しさへつながっていきます。
第5話の問題は、すでにここで芽を出し始めているのです。
第6章 なぜ江戸は巨大都市へ成長したのか
(17世紀後半〜18世紀前半、4代将軍 徳川家綱〜8代将軍 徳川吉宗の時代)
一方、江戸は政治の中心として成長を続けます。
家康が幕府を開いた当初は新しい拠点にすぎなかった江戸ですが、参勤交代と幕藩体制によって、大名、その家臣、家族、そして彼らを支える商人や職人が集まる巨大都市へ変わっていきました。
4代将軍家綱の時代には、その都市化が安定して進みます。
5代将軍綱吉の時代には、江戸は大きな消費都市としての性格をさらに強めます。
そして8代将軍吉宗の時代には、政治改革の中心地としても重要性がいっそう高まります。
江戸の交通と商業の中心が日本橋です。
ここから各街道がのび、人と物が行き交います。
また、書状や情報、商品を運ぶ飛脚も活躍し、江戸は単なる政治都市ではなく、情報と流通が集まる都市になっていきます。
つまり江戸の巨大化は偶然ではありません。
幕府の支配制度そのものが、江戸という都市を大きくしたのです。
参勤交代が人を集め、政治の中心であることが消費を生み、それを支える町人が増える。
江戸の成長は、幕府の仕組みが生んだ結果でした。
第7章 なぜ町人が経済の主役になっていったのか
(17世紀後半〜18世紀半ば、5代将軍 徳川綱吉〜8代将軍 徳川吉宗〜9代将軍 徳川家重〜10代将軍 徳川家治の時代)
こうして生産・流通・都市の発展が進むと、社会の中で実際に力を持つ人々も変わってきます。
それが町人、つまり商人や職人です。
武士は政治の中心にいます。
しかし、実際に物を売買し、お金を動かし、都市生活を支えているのは町人です。
この変化がはっきりしてくるのは、5代将軍綱吉の時代から、8代将軍吉宗、9代将軍家重、10代将軍家治の時代にかけてです。
商人たちは両替商を通じて金融を担い、株仲間を作って商業活動を組織化していきます。
また、一部では**工場制手工業(マニュファクチュア)**のような形も見られ、ものづくりそのものもより大規模で分業的になっていきます。
ここで本当に重要なのは、建前と現実がずれ始めることです。
建前の上では武士が上に立っています。
しかし、経済の現場では商人や職人が大きな力を持ち始める。
このズレは、のちに幕府や武士を苦しめる大きな問題になります。
つまり町人の台頭は、江戸時代の繁栄の象徴であると同時に、
幕府の仕組みと社会の現実とのあいだにズレを生み始める現象
でもあったのです。
第8章 なぜ元禄文化が花開き、その一方で綱吉は道徳による統制を強めたのか
(1688年〜1704年ごろ、5代将軍 徳川綱吉の時代)
経済的に豊かになると、人々はただ生きるだけではなく、楽しみや表現を求めるようになります。
その代表が、5代将軍徳川綱吉の時代に花開いた元禄文化です。
この文化の担い手は、主に上方、つまり京都・大阪の町人たちでした。
文学では井原西鶴が浮世草子によって町人の現実を描き、
演劇では近松門左衛門が人形浄瑠璃や歌舞伎の世界を発展させます。
俳諧では松尾芭蕉が現れ、『おくのほそ道』を残しました。
美術では菱川師宣が浮世絵を広め、『見返り美人』のような作品に象徴されるように、現実の人間や町の空気が文化の主役になります。
なぜこうした文化が花開いたのでしょうか。
それは、町人が経済的な余裕を持ち、都市が文化を支えるだけの豊かさを持つようになったからです。
つまり元禄文化は、平和と商業発展の到達点だったのです。
ただし、綱吉の時代を「自由な町人文化がのびのび栄えた時代」とだけ見ると、半分しか分かりません。
綱吉自身は、社会が豊かになり、人々の活動が活発になるほど、将軍として秩序と道徳を立て直さなければならないと考えていました。
その背景には、武士社会のゆるみへの不安や、大都市江戸に人と富が集中する中で、将軍が社会全体のふるまいを正すべきだという意識がありました。
綱吉は儒学を重んじ、政治を単なる支配ではなく、道徳によって社会を整える営みとしてとらえようとします。
その象徴的な政策が、生類憐みの令です。
この法令は、一般には「犬を大切にせよという変わった法令」として有名ですが、流れの中で見るなら、それだけではありません。
綱吉は、人間がむやみに動物の命を奪ったり、弱い存在を乱暴に扱ったりすることを禁じることで、社会全体のふるまいを改めようとしたのです。
つまり生類憐みの令は、綱吉が将軍として、
人々の暮らしや心の持ち方にまで介入し、道徳的な秩序を上から作ろうとした政策
だったのです。
もちろん、この法令には行きすぎた面もあり、現実の暮らしとかみ合わない部分もありました。
だからこそ後世には奇妙な法令として記憶されがちです。
しかし歴史の流れの中で見るなら、生類憐みの令は、元禄文化が花開く豊かな時代に、綱吉がその社会を放任するのではなく、将軍の側から道徳によって包み直そうとした試みとして理解するのが大切です。
つまり5代将軍綱吉の時代には、
一方で町人文化が大きく開花し、
他方で幕府は儒学や生類憐みの令を通じて秩序を強めようとした。
この二つが同時に進んでいたのです。
第9章 なぜ繁栄は、そのまま次の問題の種にもなったのか
(18世紀前半〜中ごろ、8代将軍 徳川吉宗〜10代将軍 徳川家治の時代)
ここまでを見ると、江戸時代の社会は非常に順調に発展しているように見えます。
実際、それは間違いではありません。
農業は伸び、交通は整い、商業は広がり、都市は栄え、文化は花開きました。
江戸時代はまさに、平和が生んだ繁栄の時代でした。
しかし歴史は、発展したからこそ次の問題を生みます。
第一に、身分と経済のズレです。
建前の上では武士が上に立っています。
ところが現実には、商人や町人が富を蓄え、経済の力を握りつつあります。
このズレは、8代将軍吉宗、9代将軍家重、10代将軍家治の時代にかけて、さらに大きくなっていきます。
第二に、幕府や藩の仕組みそのものの問題があります。
幕府も藩も、建前の上では年貢米を土台にしています。
しかし現実の社会は、どんどんお金と商業を中心に動くようになる。
つまり、支配の仕組みと社会の実態が、少しずつかみ合わなくなっていくのです。
だから第4話の繁栄は、単に「江戸時代は豊かでよかった」で終わる話ではありません。
平和が社会を発展させ、その発展が、今度は幕府の仕組みとのズレを生み始める。
ここに、第5話で扱う幕府のゆらぎの出発点があります。
まとめ
第4話で本当に大切なのは、江戸時代の繁栄を「ただの豊かさ」として見ないことです。
4代将軍徳川家綱の時代には、家光までに作られた平和が社会の土台として働き始めました。
5代将軍徳川綱吉の時代には、都市の消費社会が成長し、元禄文化が花開く一方で、綱吉自身は儒学や生類憐みの令を通じて、将軍として道徳による秩序づくりを進めました。
8代将軍徳川吉宗の時代になると、農業と財政、経済活動の重要性がいっそう強く意識されるようになります。
そして9代将軍家重、10代将軍家治の時代へ進むにつれて、町人の経済力と武士の建前とのズレがいよいよ目立ち始めます。
つまり第4話は、
平和が人々の力を生産と商業へ向かわせ、
その結果、社会は豊かになったが、
同時に幕府の仕組みと現実とのズレも育っていった時代
として捉えるのが大切です。
そして次の第5話では、
そのズレがなぜ幕府の財政や支配を苦しめ、改革の時代へつながっていくのか
を見ていきます。


